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2012年2月

2012年2月28日 (火)

左利き(southpaw)は左右の識別が苦手

左利き(southpaw)は左右の識別が苦手

Time-stamp: "Fri Aug 12 14:38:06 JST 2011"
先日、本頁(左利きは早死にする)で「左利きは事故に遭う確率が高く、寿命 も短い」という話をご紹介した。これはとっさの判断が遅れたり、瞬間的な 反射行動がもたついたり、左右が逆になるためるらしい。ところが左利きと か右利きのほかに、左右の区別がつかないという問題もあるというのであ る。
このような左右を混同する人が先ず問題で、養老教授の言うウサギ跳びやカ エル跳びになってしまうらしく、「ブレーキと間違えてアクセルを踏んだ り、左と言いながら右に曲がったり」する。それがパイロットになると「計 器を読み違えたり、数字をあべこべに読んだり……方向を間違えたりする」
ノルウェー空軍のあるパイロットは、「どちらに旋回するのかいつも自信が もてない……飛行機の中では、左右の識別をするのにいちいち結婚指輪を見 なければなら」ず、密集編隊を組むのを怖がったという。
あるいは、離陸後右旋回をして海上に出なければならないのに、左旋回をし て山にぶつかったり、右エンジンが故障したのに左エンジンのスィッチを 切って墜落するなどの事故が見られる。

食事の道具である箸を、慣れた普段の手とは反対側の手で使いなさいと言わ れたとする。利き手でない手による箸使いはたどたどしい。食べる速さがガ クンと落ちる。箸に関して、私は二十才をすぎるまで左手を使っている。左 利きの我が子が文字を左手で書くのだけを禁止した。箸を左手で使うことは 叱らなかった。文字は右手で書きやすいようにデザインされている。左手で は苦労するだろうと思ったと聞く。すべて右手を使えという強いストレスを かけることを控えたようである。文字と同じように絵を描くのも右手が主に なったが右手が使いにくい場面では左手も使う。

二十才をすぎた或る日、左手で箸を使う自分を見て「右手で箸を使わせるよ うに躾けなかった親が悪い」と年寄りがいうのを聞く。自分自身ではなくて 親が悪いと言われたのでは親に対して申し訳ない。すぐに右手で箸を使うト レーニングをする。十日もするとギコチないながらソコソコの速さで食べら れるようになる。それ以後は余所行きには右箸で、格好をつけなくてよい席 なら左箸である。それ以来40年間、自宅では楽な左箸、外では無理して右箸 である。酔っ払ったときとか豆類を摘むのは左でないとまどろこしい。いま も左箸のほうが右よりスムーズである。

正統な由緒正しい右利きの人達はほとんどの作業を右手でする。それに対し て左利きの人は何でも左手でなければというのは少ない。いわば「まだら左 利き」(cross dominance、クロスドミナンス、交差優勢)である。私は、箸 は左(右もソコソコ使える)、金槌は左、草刈り鎌は右(左利き用の鎌は手元 にないから普通の鎌を使う。左利き鎌には馴染めない気がする)、鋏は右(左 用だと違和感がある)、ボール投げは左でお尻を拭くのは右とバラバラであ る。

本来は左利きなのだけれども周りの人が右手を使っているのを真似ているう ちに右手を使うことに慣れてしまう。左利きにとっては、やりやすいはずの 左手を使うと却って違和感を覚えるようになったりする。

小学生の頃に予防注射を左腕にする。みんなが左腕にしているので単純にそ れを真似る。利き腕の左腕にしたところでとくに差し支えはない。注射とは 左腕にするものだと思う。まだら左利きな私は子どもの頃からずーっと左腕 に注射している。ほんとは注射を利き腕に打たないほうがよいらしい。きわ めて稀に神経障害になることがあるという。

普通の注射なら一分もあれば終わるが点滴ともなると長い時間がかかる。点 滴で水分補給すると尿意を覚える。点滴台を引っ張りながらトイレに向かう 人を病院でよく見掛ける。現在の注射針は細くてしかも撓(たわ)むものとは 言え点滴針の刺さった腕を動かすには気を使う。

私は55才のときに急性心筋梗塞で9日間入院したことがある。そのときは左 腕に点滴の注射針が3本刺さっていた。緊急入院のドサクサで、どちらの腕 に点滴するかを聞かれたのかどうかや、それにどう答えたのかを憶えてな い。点滴注射は以前に何かで一回だけ受けたことがある。そのときも利き腕 の左腕に点滴している。24時間ぶっ通しの点滴であったが右手で箸を使える ので食事で困ることはなかった。

人間が、自分を中心とした外界の方向をどのように指し示すかを考える。三 次元空間に住んでいるから、互いに直交する三本の座標軸の原点に自分が居 るものとして方向を指定する。先ずは上下の方向で足元から真上の空への方 向を取る。上下の区別は重力の働きで判断する。手に持ったものを放したと き落ちてゆく方が下になる。物を振り子のようにぶら下げたときの向きを下 とする。二番目は自分の前後方向になる。直立姿勢で目の前に見える水平方 向が前(方向)になる。普通の無理のない自然な歩きで進む向きが前になる。

最後の三番目に上下軸と前後軸の両方に直交する左右軸を考えることにな る。上下は重力の働く方向、前後は目の前に見える景色であり進行方向であ る。左右に関してはどちらかを右と定め、その反対を左とすることになる。 さて一体どちらを右にしようかは決まらない。右側から左側に物が落ちてき たり、ぶら下がったりすることはない。また、右側が楽な姿勢を取るとき自 然に見える方向ではない。普通に歩いて進む向きでもない。どちらが右であ るかは人間が努力して身体に覚え込ませるしかない。

  • 左右 - wikipedia -
観測者にとって、上下(高さ)と前後(縦)の方向が定まった時に、左右 (横)の方向が決まる。前後、上下とは直角に交差し、左と右は互いに正反 対である。人間にとって、上下は重力の方向を、前後は自己の進行方向を示 すというようにはっきりと異なる意味を持つのに対して、左右にはこのよう な価値の差が判然とは存在しないために、混乱が生じやすい。左右という概 念・単語を持たない民族・言語もある。

簡単には看護師さんの手メモにならって右手の甲とか手の平に「右(みぎ)」 と書いておき、左と右の判別が必要なときに手メモを見て決める。それを繰 り返す訓練で迅速に左と右が判断できるようにするしかない。まだら左利き の私は、実際に手メモしているわけではないが右手に「みぎて」と書いてあ るとイメージして判断している気がする。

(注)医療関係者とくに看護師さんの手メモはよく見る。好ましくないと聞く が物忘れ防止に手メモは一番である。ボールペンは必ず持っている。メモ用 紙は、取り出しでモタつくし、折角書いたメモを紛失するおそれがある。看 護婦さんは仕事中にしょっちゅう他から別の仕事の割り込みが入る。病室に 向う途中の廊下で通り掛かりの人に何かを尋ねられる。案内だけで済めばよ いが頼み事だったりすると本来の用務と割り込まれた用事で混乱が起こるか もしれない。そういうときは思い出すための手掛りとして手メモするのがよ い。人命に関わる仕事で度忘れは許されない。
人間の注意力には限度がある。現在集中すべきこととは別の気掛かりなこと があると注意力が殺がれる。次から次へと新しい懸案が押し寄せると処理し きれない。溢れないうちに外部記憶装置(メモ)に移したほうがよい。何か目 印だけでも残しておけば思い出す手掛りになる。忘れないためにメモするを 通り越して、忘れるためにメモすると開き直るのも一つの方法である。

たいていは子どものころに「箸は右手。おちゃわんは左手」と教え込まれ る。ところが普段から箸を左手で使う我々左利きにとって、この呪文はやっ かいものである。正統右利きの人は「箸は右手」から一直線で右手に到達で きる。しかし箸を左手で使っている者は「箸は右手」と言っても、私は箸を 他の人とは反対の手で使う。私が箸を持つ手とは反対側の手が右手になる。 右利きの人に向けた呪文を左利き用に翻訳する必要がある。通訳を通すため に反応が一呼吸分だけ遅れてしまう。

小学校の体育の時間での「右向け右」などにはとても緊張したことを思い出 す。周りの様子を見ながら一呼吸だけ遅れて動いていたようだ。右と言われ ても咄嗟にどちらかが分からない。落ち着いて考えても確証が持てないぐら いアヤフヤである。聞いて直ぐに行動しなければならないときは頭の中が 真っ白になりバンザイ(お手上げ)状態になる。「右へ」と言われたら直ぐに 曲がらなければならない場合とか、曲がる直前に「右へ(曲がれ)」と指示し なければならないとかの時間的な余裕がないときは今もって言い間違える。

自分の左右認識能力の欠落を自覚したのは、小学校の低学年の頃であった。 右向け右、左向け左、回れ右ができないのである。或る日、教室で「右向け 右」の練習をさせられた。教壇に立った教師と向かい合った生徒が、右向け 右をやる。生徒から見て、窓側が左であった。教師が「左向け左」と言うと 全員が窓側を向く。次に私一人が生徒側に向かって教壇に立たされて、「左 向け左」をやらされた。私は教師がやった通りに窓側を向いたのである。私 は教師にやったことを忠実に真似たのであるが、その時の当惑したような軽 蔑の表情がかすかに記憶に残る。その頃は向かい合った人間にとって左右が 逆転するという理屈などわかる訳なかったのである。
左利きの多くの人が、この左右認識能力の欠落を告白している。特に車に 乗っていて、道案内するときの言い間違えが多いようである。この特質は左 利きに固有なものと考えたくなるが、根拠を示すことはできない。
まず、我々動物には左右を識別するための感覚器官というものがありませ ん。上下といいますのは重力を基に三半規管によって判定され、太陽光の方 向でも判断が可能です。ですが、左右といいますのは自然現象ではなく、こ れは飽くまで人間が作り出した観念です。従いまして、我々動物の脳にはそ もそも左右を直接識別するための機能というものは存在しないのでありま す。
上下左右というのは、脳内では視覚情報による「空間座標」として纏められ ています。ですから、「前」「後ろ」となど言われたとき、我々はその言語 情報を脳内の視覚情報と一致させているわけです。脳内座標では、「前後」 「上下」はどんな体勢のときでもはっきりと決まっています。ところが、左 右の座標は対称に造られているため、我々はまず前後を把握してからそれを 論理的に割り出さなければならないということになります。このように、上 下、前後の判断が早いのは、我々がそれを視覚的に判定できるからです。従 いまして、間違えないようにするためには、頭の中に何か「左右の視覚的な 違い」を創り出せば良いわけです。
昔から「ご飯は左、箸は右」と憶えるのも、これを視覚情報として扱うため です。我々の脳は、言語情報や聴覚情報では果たして左右を決めることはで きません。飽くまで、箸を持つ手を頭に思い浮かべられなければならないわ けです。箸と茶碗を思い出しても良いのですが、右へ曲がれといったときな どは、例えば「右」と「左」の文字を右側と左側とに思い浮かべるようにす れば少なくとも間違いは減らせるのではないでしょうか。更に、「右」は 赤、「左」は青といった文字に色を付けておけば効果も上がると思います が、反応というのは果たして訓練以外に手段はありません。戸惑うのは誰で も同じです。車を運転したことのないひとは、良くいきなり「その信号 右!」なんて言いますよね。これけっこう危ないんです。

ナイフとフォークを使う食事で正統右利きの人はナイフとフォークのどちら も右手で使うことがある。格式ばった席では持ち手を固定しているが家庭内 のくだけた席ならナイフで切り分けたらナイフを傍らに置いてしまい、 フォークを右手に持ち替えて食べ物を口に運ぶ。それに対して左利きの人は ナイフとフォークを持ち替えることをしない。ナイフを片仮名の「ハ」の字 の向きにゴシゴシ前後するくらいは利き手でなくてもわけなく出来る。 フォークは利き手の左でよいからまったく問題ないというわけである。

フォークとナイフを持つ手を取り換えるのはさほど難しくない。それに対し て箸を利き手から反対に持ち替えるのはとても難しい。初めて持ち替えたと きは食べた気がしないくらい疲れる。ナイフに比べて「箸は右手」は身に強 く染み付いている。それだからこそ左右の識別に使える。

数学とか物理学に右手の法則と呼ばれるものがある。親指、人差し指、中指 を立てて直交三軸に見立てる。フレミング右手の法則と言われたりもするも のである。右手の法則にはもう一つのパターンがある。右手親指だけを立て て残りの四本指を揃えて手摺りを握るように軽く曲げる。こちらは右ネジの 法則である。四本指の根元から指先方向にネジを回すと親指方向にネジが進 むことを表す。

三本指を直交させる右手の法則で上下軸の上方向と前後軸の前方向に二本の 指を向けるとき三本目の指が向かうのが左右軸の右方向になる。しかしこの 方法では、右を指定するのに右手を取り出さなければならない。ある用語の 定義を与える表現の中にその用語自体が本質的に登場していること(循環論 法)になりまともな定義とは言えない。

ところで無重力状態では物が落ちるとかぶら下がる方向というのは意味をな さない。そうなると背骨の頭方向とでも言うしかない。前後は素直な目線の 方角である。左右は両肩を結ぶ方向とでも言うか。左と右は指定しようがな い。人(動物全般である)の身体はほぼ左右対称であって左右方向を特定する 特徴のある部位がない。黒子・いぼ・痣(あざ)などは誰にでもあるものでは ない。右と左の判別に使うことはできない。人間共通に片半身だけにあるよ うなものがない。そこで箸を持つ手というようなイメージの世界に逃げ込ん でゴマカすしかないのである。

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